みんなの「おもしろい!」を重ねていく。 さて、では一体、日本の教育がこんな風になってしまった原因はなんでしょうか。 そもそも僕らは、日本の学校や教員を全否定するつもりなど全くなくて、僕自身のことで言えば、これまで不登校になったり、いじめの被害にあったことはなく、むしろ学校や先生や友達というキーワードに紐づけされた大切な楽しい思い出がたくさんあります。 それでも、居場所を作れず、生きる意味を見失ってしまう子ども達が今の日本にもこんなにたくさんいることを知って衝撃を受けたと同時に、たくさんの「なんで?」が頭から離れず、小学生の子どもを持つ親として、そして「問題の発見と解決」を生業とするデザイナーとして、この問題は決して他人事ではなく、もっと出来ることはないかと考えるようになりました。




「子ども」という円をぐるりと取り囲むように「親・家庭」という円があると想像してください。 さらに、その外側に「社会」の円、その外側に「時代」の円、さらにその外側に「自然」の円があるとします。

時代の円は常に回転し、動いています。 しかもその速度はどんどん加速していますが、残念ながらその回転に日本の社会や学校や教育はついていけていません。 時代の回転についていくことが正しいかどうかはひとまず置いておいて、回る方と回らない方のその接点には、どうしても大きな摩擦や歪(ひず)み(上の絵の赤い線)が生じます。 そして多くの家庭ではその真逆のことが起こっていて、家庭や親は基本的に社会の回転の方向や速度に合わせざる得ませんが、子ども達はインターネット等の存在によって昔の子どもよりも遥かに多くの情報を持ち、だからこそ時代に合わせて「回転」していきたい子ども達と、社会の遅い「回転」に縛られている家庭の間にも、同じように摩擦や歪(ひず)みが生じています。 時代という外側の円と、社会という内側の円、家庭や親という外側の円と、子どもという内側の円。 回転するほうと回転しないほうが逆ではありますが、そこに歪(ひず)みが生じている現象には変わりありません。 ちなみに、一番外側の「自然」の円は、時代の流れの影響を受けません。 何が流行ろうが、どんな色がトレンドになろうが、自然界にとっては無縁です。

そこで、一部の子ども達はこの摩擦や歪(ひず)みによる影響に苦しんでいるのではないか?という仮説を立ててみました。 親が反対しようが世間にどう思われようが、自分のやりたいことを貫いて円の外へと自力で出て行ける子どもがいる一方で、それが出来ずに苦しんでいる子どももいます。 同じく、世間や社会がどうであれ、子どものやりたいことを応援してあげられる親もいれば、その逆の親もいます。 全ての人がそうだとは言いませんが、時代が常に正しい方向へ正しい速度で回っていると仮定して、その時代と共に社会が回れば家庭も同じ速度で回っていける。 もしくは、世間や社会に縛られず惑わされず、家庭や親が子どもと同じ速度で回ってあげることができれば、ただそれだけで、摩擦や歪(ひず)みに苦しむ子どもがかなり減るのではないでしょうか。

そもそも、不登校(学校へ行けない)なのか、それとも非登校(学校へ行かない)なのか、その見極めが大切です。 もしも自分の子どもが学校へ行けないとなった時に、学校へ行きたいけど行けないのか、学校へ行かない選択をしたのか、親がその判断を間違えると、その子を救いたいと思っているのに、逆にどんどん追いつめてしまうことになりかねません。 円の外へ自力で出て行ける子どもはもともと強く、それが出来ない子どもはもともと弱いからだと簡単に区別してしまう人もいますが、それには強い違和感を感じます。 強いとか弱いとかではなく、親がお金持ちだから、貧乏だから、とかでもない。 この摩擦や歪(ひず)みに苦しんでいる子ども達に罪も非もありません。 どちらかといえば、摩擦や歪(ひず)みを生み出している社会の在り方にこそ目を向けるべきです。 学校へ行けない子ども達が弱いのではなく、むしろ彼ら彼女らは、摩擦や歪(ひず)みの影響を人よりも強く感じ取っているにすぎず、彼ら彼女らが発している大切なメッセージに、もっと真剣に向き合うべきなのだと思います。

迷路を上から見れる視点があれば、新たな「C」という解を生み出せる思考があれば、必ず理想の未来を創っていける。 「デザイン」はそのためにあるもので、ないものねだりや背伸びは必要がなく、自分がすでに持っているものだけでも十分に駆け抜けて行けるし、自分が持っているものを磨き上げる方法だってある。 それを子ども達に教えてあげたい。 その術を与えてあげたい。 親にもそれを知ってほしい。 親こそそれを手にいれてほしい。 少なくとも「居場所」であるはずの社会や家庭が「異場所」であってはならないのではないかと思います。




そして世の中には、ベアリングのような方法でそれらを「スルー」して、その回転の歪(ひず)みに影響されない「スロー」な生き方を選ぶ人や、時代の流れそのものにも影響を受けないよう「自然」へと身を移す人達も増えています。 近年の「森のようちえん」のムーブメントや「オルタナティブ教育」の広がりは、時代と社会の歪(ひず)みに苦しめられている子ども達にとっての安心できる場所の必要性や、自然な環境の中で子ども達を育てることの大切さに多くの人が気づき始めた結果でもあり、これらの教育スタイルを選ぶ人達がどんどんと増えている今の状況を鑑みれば、やはりこの摩擦や歪(ひず)みや格差などがもたらす悪影響が、敏感で繊細な子ども達の心を蝕んでいるのだと考えるのが自然ではないかと思います。

ただ、そんな「自然」も決して不変ではありません。 むしろ、自然界ほど時代や環境の変化に合わせて変わり続けている存在もないほどに自然は常に変化しています。 いくら時代が変わろうとも、「変化に順応できるものだけが生き残る」という恐竜の時代から続くこの事実が変わることは決してありません。 そして自然界は、変化することを否定せず、それに抗わず、どのように変化していけばいいのか、どのように回転していくことが正しいのか、それをいつも身をもって私達に見せてくれています。 ただ残念ながら、社会はそれに気づかず、それをはぎ取ろうとする人達さえいます。 そう考えると今のこのいびつな現代社会の歪(ひず)みは、なるべくしてなってしまった結果なのかも知れないと思うのです。

多くの「森のようちえん」や「オルタナティブ教育」は、まさにこの自然界のメッセージを子ども達にプレゼントしてくれる場所です。 でも、オルタナティブ教育が、人の迷惑を顧みず、何でも自分勝手に自由気ままにやればいいと言っているわけではありません。 時々そうやってオルタナティブ教育が掲げる「自由」というキーワードに対して批判される方がいらっしゃいますが、あまりにも想像力が欠けているなと感じます。

アート作品が世に出るためには、そこには必ずデザインの存在が欠かせないように、画一性(画一的)な土台があるからこそ、多様性が成り立つことも忘れてはいけません。 人はもともと多様的であり、そもそも最初から人はそれぞれ違います。 でもそれでは問題が起こるということで、ルールという名の画一性が必要になってきました。 そのせいで失われたものもあり、そのおかげで守られてきたものもあります。 いうなれば、「画一的で画一的」では困りますが、それでも「多様的で多様的」ではなく、「画一的で多様的」または「多様的で画一的」ぐらいがちょうどいいのかもしれません。

ちょうどよく人と人が暮らしていく中で、画一的な作法が求められる場面があるだけで、人そのものまで画一的になる必要はありません。 これまでの日本の教育はその使い分けを教えず、効率化を求めるあまり、人そのものを画一的に仕上げようときてしまったのかもしれませんが、知識(何を言うか、何をするか)と知性(何を言わないか、何をしないか)をバランスよく持っていればクリアできる課題だと思います。 そしてそれをズバリ教えてくれているのが、「自然」という大きなロールモデルです。

みなさんもご存知の通り、「学校」といっても様々で、本当に素晴らしい教師もいる一方で、本当にどうしようもない教師も存在します。 でもその裏には、そういうバラツキを生んでしまう根本的な要因があるはずで、そこにはデザインすべき問題が根深く残っています。 だからこそ、デザイナーとして、全てをベアリングでスルーするのでもなく、時代の回転など無視して放っておけばいいとも思えず、今の日本の学校や教育界が与え損ねてきてしまったことや抱えている問題から目をそらし続けることもできません。


  • デザインの本来の役割は、問題の発見と解決。
  • 子どもの数が減っている一方で、不登校児の数は増えている。
  • これは、日本の社会や教育に何かが起こっていることの重要なサイン。
  • 正しいかどうかは別として、時代は常に変化し回転している。
  • 正しいかどうかは別として、日本の社会や教育や家庭の多くはその回転についていけていない。
  • その歪(ひず)みによって苦しんでいる子ども達が存在する。
  • 「学校へ行けない(不登校)」と「学校へ行かない(非登校)」は意味が違う。
  • 「かんしゃくを起す困った子ども」と「かんしゃくを起すほど困っている子ども」も意味が違う。
  • 不登校の問題の発生源は、親や家庭が抱える何らかの問題が原因である場合も多い。
  • 困っているのは子どもだけでなく、親も同じ。
  • 苦しんでいる子ども達を守るためには、苦しんでいる親達を救ってあげる必要があるのではないか。
  • 子にも親にも、状況を正しく把握し、変化に抗わず、柔軟に順応できるスキルが必要。
  • そのためにはやはり、もっと「学び」が必要。
  • でも、日本の社会や学校は学ぶことの面白さを与えてあげられているだろうか?
  • むしろ、学ぶことを嫌いにさせてしまってはいないだろうか?
  • 時代に寄り添った教育スタイルが必要だけど、日本の教育界は最もそれが苦手。
  • 社会のインフラや環境を支えてくれているのは、まさに「社会の円」の中で生きている人達。
  • 全員が「社会の円」の外へと行ってしまったら、社会はどうなるんだろう?
  • やはり、誰もが平等に、学ぶことが「おもしろい!」と思える教育の環境が必要だ。
  • 時代の変化や、自分たちが置かれている状況、何をするべきで、何をしないべきかがわかるスキルが不可欠。
  • だからといって、学びは大切だけど、それが「おもしろい!」と思えないと続かない。
  • だからこそ、学校こそがもっとおもしろい場所にならなければいけない。
  • では、どうすれば学校をおもしろくできるのか? おもしろいと思える学校を作れるのか?

そうやって色々と考えて、結局僕が作りたいものはいったい何なのかと自分に問いかけ続け、

  • 学ぶことが楽しくなる、そんな「おもしろい学校」を作りたい!

という思いがどんどん強くなっていきました。 それからは、どうすれば「おもしろい学校」を作れるのかという点に的を絞り、ようやく形になったのが、この「地立おもしろい学校」、通称、「おも校」です。 日本の学校にも良いところと残念なところがあるように、オルタナティブ教育にも良いところと日本人には馴染みにくい部分もあります。 ちょうどその中間に位置する学校、といえばイメージしやすいかも知れません。

そのまんまの名前やないかい!とツッこまれるかも知れませんが、先ほども言ったように、「おもしろい(面白い)」という言葉の語源は、暗くて長いトンネルや暗闇から抜け出して、目の前(面)がパッと明るく(白く)なること。 だから「おもしろい学校」という名前には、大人も子どもも一緒になって、学校や学びをもっと「おもしろく」するための場所であってほしいという想いが込められています。 もちろん、はじめからそこに「おもしろい」があるわけではありません。 学ぶことのおもしろさに出会い、口を真ん丸に開けてしまうような驚きに満ちた体験を重ね、そうやってみんなの「おもしろい!」が少しずつ積みあがっていくことで、やがて「おもしろい学校」へと育っていけるのだと思います。