デザイン教育実践校ってなんだ? おも校は、「デザイン教育実践校」です。 先でご紹介した小学校でのデザイン教育プロジェクトは、子ども達が「デザインの視点と考え方」を学び、「デザインを手にいれる」ためのプログラムです。 本来であれば、小学校6年生の数日間だけではなく、もっと小さい頃から、もっと大きくなるまで、年単位で学んで確実にデザインを手にいれてほしい大切なスキルです。 それを実現するための場所、それがおも校。 おも校ではもっと深く、じっくり確実に「デザインの視点と考え方」が身に着くような教育スタイルを基本としています。

その昔、「8時だョ!全員集合」という伝説的なお笑いコント番組があり、幼少時代に夢中になって観ていたのを覚えています。 その中のひとつに「しむらー!うしろー!」というお約束のコントがありました。 舞台上の志村けんさんが後ろの幽霊に気づいておらず、客席の子ども達が大声で志村さんにその存在を教えてあげる、というもので、志村さんが後ろを振り返ると幽霊は隠れ、志村さんがまた前(客席側)を見ると後ろに現れる。 でまた子ども達が「しむらー!うしろー!」と大声で叫ぶ。




デザインとはまさに、このコントの中の子ども達の視点だと言えます。 例えば川岸で、何をするわけでもなく、苦しんでいる子ども達の傍にただ寄り添い、ずっととなりにいて同じ景色を見る。 それと同時に、川の反対側からその2人を見つめ、2人の後ろもちゃんと見ている。 同じ方向を見つめる視点と、反対側から全体像を常に正確に把握できる視点。 このどちらもが不可欠であり、それに欠かせないのが「デザインの視点と考え方」です。

例えば、おも校の校庭にも滑り台を作ろう!となったとして、一般的な日本の学校では、校長先生と業者の方だけで話を進め、校長先生がカタログの中から選ぶだけ、というやり方が多いのではないかと思いますが、それを実際に使う子ども達の意志が入り込む余地がありません。 もちろん、限られた期間やコストの中ではそのほうが都合がいい、それしか方法がない、ということだと思いますが、それでも、どういう滑り台がほしい? どんな色がいい? と子ども達に直接尋ねて、子ども達の意見を尊重しながら決めていく方法のほうが、「本質」という意味ではよっぽど理にかなっています。

では、「デザイン」というキーワードで考えた場合はどうでしょう。 アートは自己表現ですが、デザインは他者表現が基本です。 なので、どういう滑り台が作りたいか、どんな色が好きか、ではなく、この場所にはどういう滑り台が合うのか、どういう色が似あうか、という視点が必要です。 そのためおも校では、どんな滑り台を作るかを決める時は、大人も子どもも一緒になって会議をします。 その際は、実際に建築模型のようなミニチュアを用意して、最初に最も景色に溶け込む形や色の代表例を示したうえで、そこから色や形をどう変えていけば、全体の雰囲気を壊すことなくもっとステキな滑り台が作れるか、それらを実際に目で見て手で触れて体感しながら意見を出し合います。 さらに、例えば「黄色がいい」となった場合も、どんな黄色が一番合うか、建物との調和はどうかなどを話し合い、デザイン性、安全性、コストなどをみんなで考慮して、みんなで決めていく。

当然、実際に滑り台ができるまでにものすごく時間がかかってしまいますが、考えること自体に意味があり、やがてそれが出来上がった時は、カタログから選んで業者が設置しただけの時よりもはるかに大きくて深い愛着があるのではないでしょうか。 そしてもちろん、もっとも大切なことは、この会議自体を「ちょーおもしろく」するためにはどうすればいいのか、それを徹底的に考え抜くのが、おも校の「ラボ」の使命と役割です。 子ども達と一緒に大事なことをちゃんと決めていける、でも子ども達も楽しめるすごくおもしろい会議。 たくさんの仕掛けが必要ですが、それもまた一興(いっきょう)。 それもまた、大切な学びとなります。

実際に町の中を見渡してみると、この視点で建てられた建物やお店や看板などがいかに少ないかに気づきます。 黄色が好きだと思えばまわり構わず黄色で埋めつくしたりします。 ただ人よりも目立てればそれでいいと思う経営者が多くいても、それがアートや自己表現だと捉えればそれでもいいのかも知れませんが、おも校は「デザイン」が基本。 デザインは「風景」を創っていくツールです。 四つ葉のクローバーを見つけるために三つ葉のクローバーを踏み荒らすやり方はデザインとは呼べません。 でもかといって「自分」がそこに不在なわけでは決してありません。 デザイナーにとって、見事な調和が取れた時の快感は最高の醍醐味。 そしてそこには、ちゃんと「自分」がいるのです。

そうは言っても、まずは自分の思うようにやってみることも大事。 そのため、個人で決めていい部分は自分で好きに決めていいと思います。 滑り台だって、デザイン的な「調和」はすごく大事なので、最初はみんなで会議をして決めていきますが、実際に設置された後は、そこに子ども達の落書きがあってもいい。 そのほうがもっと愛着がわきます。 色を全部塗り替えてしまうくらいのスプレーアートでは会議をした意味もなくなってしまうので困りますが、そこで生まれた文化や暮らしや営みが、レイヤーとして積み重なっていく、それこそが、景色ではなく風景。 堅苦しくは考えず、自由でいいところはどこまでも自由に、調和が必要な場合はみんなでワイワイと考えていく。 それがおも校的なデザイン教育の実践です。
おもじろーな生き方。 おも校の校章である、黒いドーナツのようなキャラクター「おもじろー」は、「おもしろい」の「O(オー)」、暗闇から抜け出す先の光、暗闇から光の場所へ出た時は瞳孔が小さくなる様子、あっと驚いた時の口の形、丸い形はどんな形にも変形できる、丸い形には行き止まりがない、ドーナツみたいで美味しそう、などなど、色々な意味が込められていますが、普段は手足を引っ込めていて、いつもフワフワ浮いています。 そのおかげで、時代と社会の歪(ひず)にも影響を受けず、常に自分を見失わずにいられます。

手足も必要な時に必要な形で自由に出し入れすることができます。 例えば、手の先が磁石になったり、虫メガネになったり、木を切るときはノコギリになったり、ホースになったりハサミになったり、脚が巨大なバネになって飛び上がれたり、タイヤになって早く走れたり、ぷくっと膨らんで海に浮いたり。 苦手なこともあるけれど、そういう時は得意な友達のおもじろーに頼めばいい。 色んな特徴を持ったおもじろー達がそろえば、もう色々と、それこそ何にだって変化できます。




おもじろーと目が合うと、悩んでたことも一瞬忘れて、クスっと笑顔がこぼれます。 そう、「おもじろー」は、私たちがどうあるべきか、どういるべきかを、いつも優しく、のんびりと教えてくれているのです。 私達が見たいのは、学ぶことっておもしろい!、わかることって楽しい!という子ども達がたくさん増えて、もっと学びたい、もっと知りたい、もっとわかりたいと目を輝かせ、そうやっていつか大人になった時に、時代と社会の歪(ひず)みをどうすれば解決できるかに取り組んでくれる若者がたくさんいる社会の風景です。 そのために「希望の種」を蒔き続け、やがてたくさんの花が咲くように、自分たちもより良い「土」として生きていきたいと願っています。 と、おもじろーも申しております。
ちりつ。 子ども達の可能性は無限です。 ただし、社会がそれを邪魔しなければ、という条件付き。 その想いを「地立(ちりつ)」という言葉に込めました。 「地立」とは、公立でも私立でもなく「地域で育てていく学校」という意味でつけたオリジナルの呼称です。 ずっとずっと昔から、地域や社会には、子ども達の可能性を信じてそれを伸ばしてあげる責任と役割があります。 かつての日本は、それこそ地域全体が学校でした。 算数も国語も社会も理科も地域全体で学ぶことができました。 教育は学校がやってくれるものと丸投げにしてきた結果、常識をはるかに超えるほどの負担が学校や教師にのしかかり、その結果、教育の質も落ちている。 正直、「教育」や「未来」を語っている余裕すらないのが今の教育現場のリアルです。 だからこそ、子ども達が学ぶことのおもしろさに出会えるかどうかも、地域や社会がその役割を全うできるかどうかにかかっているのです。

おも校は、地域で支え育てていく小さな小さな学校です。 例えるなら小さなアリのようなもの。 突然、巨大なマンモスが向かってきたらひとたまりもないでしょう。 でもだからといって、マンモスを倒すために自身もマンモスになろうとすることが最適解だとは限りません。 適した場所を開拓し、雨に巣を流されないように、風に飛ばされてしまわないように、日々学び、工夫し、アイデアを生み出し、仲間達と協力し、そうやって成長する過程で私達が対峙するべき相手は、マンモスではなく、雨や風や山や海などの「大自然」であるべきです。 自然は全てを教えてくれます。 どう変わるべきか、どう変わらないべきか、何をするべきか、何をしないべきか。

おも校には校則や宿題はありません。 遊びながら学び、学びながら遊ぶ。 遊びの中で何かを発見し、それを調べて知識を得る。 今度はそれを別のことに応用してみる。 そうしてまた別の新たな発見に出会う。 その体験やベースが子どもの時にたくさんあれば、「学び」とも友達になれます。 学ぶことが嫌いじゃなくなります。 大人になった時に、それらはとても役に立つはず。 そうやって遊びの中から本物の知識や知性や感性を育んでいきます。 子ども達にとって「遊び」ほど学びの機会が多いものは他にはありません。 そのために、おも校のスタッフが最初に行うことは、それぞれの子ども達の「笑いのツボ」を見つけることです。 笑いのツボとは、その子どもが最も興味を示すポイントのこと。 その子特有の笑いのツボに合わせて、クリエイター達が知恵やアイデアを出し合い、その子に適した遊びや学びをサポートしています。


おもしろい毎日。 上の写真は、小学校の入学式の朝に撮った祖父と6歳の僕です。 ワクワクと不安に飲み込まれて、あんまり眠れなかった前の晩のことを今でも鮮明に覚えています。 残念ながら今の僕は、あの頃の僕が夢見ていた大人(外科医!)にはなれませんでしたが、ゴミ袋とバーナーで気球を作ってみたり、粘土で芸術作品を作ったり、虫をとる仕掛けを工夫したり、裏山で冒険したり、虹にタッチしてやろうと自転車に乗って全速力で追いかけたり、なんで太陽を見ると目が痛くなるのか、どんな形の紙飛行機が一番遠くまで飛ぶか、どうすれば好きな女の子に笑ってもらえるか、毎日色んなバカなことをして、色んな実験をして、色んなことを見つけていって、毎日どこかしらケガをして、毎日服がどろどろになるまで遊んで、叱られて、走って、笑って、そんななんでもないあの頃の日々は、間違いなく、かげがえのない一生の宝物。 そしてそれと同時に、あの頃の僕が今の僕にいつも問いかけてきます。 毎日ちゃんと、おもしろいか?、と。

世界と日本の残念な差のひとつに、教育への投資率の低さがあります。 大小問わず、何らかの教育関連のプロジェクトに投資または参加している経営者はまだまだ少なく、地方の中小企業ほどその傾向が強いといえます。 もちろん全ての経営者がという意味ではありませんが、「地域活性化」という便利な言葉を盾に、教育をないがしろにしたり、人よりも勝ち上がることだけを目指したり、自身の夢の実現にばかりその商才を活用したりすれば、足元に太陽光が届かず、草木が育ちにくい痩せた土壌になってしまうのは当然の結果です。 本当に地域を活性化したいと考えるのなら、なおさらのこと、足元の教育をもっと大切にするべきではないでしょうか。 生意気なことを言うようですが、広告業界の一員として、経営者の夢の実現をお手伝いしてきた者として、今一度、経営者の方々には教育にもっと目を向けていただきたいと願っています。

「オルタナティブ教育」や「森のようちえん」の優れた先例をお手本にしつつ、日本の学校が抱える多くの問題と向き合い、おも校に来れば必ず1回は大笑いできる、そんな場所でありつづけたいと思っています。 おもしろい学校、おもしろい仕事、おもしろい会議、おもしろい二人。 地立おもしろい学校で過ごす日々が、子ども達にとっての宝物になれるよう、小さな学校の大きな挑戦はどこまでも続いていきます。 どうか末永く、おもしろがっていただきながらお付き合いいただけますよう、何卒よろしくお願いいたします。 そして、おも校の理念やこの活動にご賛同いただける方は、どのような形でも構いませんので、ぜひともチームに加わってください。

グダグダ長文&乱文スペシャルでごめんなさい。 最後まで読んでくださった方には心から感謝いたします。
さあ、たくさんの「おもしろい!」に出会うために、明日もまた、いっぱい遊びましょう!

地立おもしろい学校
理事長 兼 プロデューサー
丸川竜也